思考するギタリストの身体性について
思考するギタリストの身体性について
子供の頃に藤森神社で、毎年の5月5日に、篠笛を吹いていたときに、少しばかりだけど考えていたこと。
理想としてだけど・・・、
「身体が動いて、音が紡がれ、また、その音を聴いて音を紡ぐ状態にならないものだろうか。
そこに、ぼんやりと他の事を聞けたら良いのになー。」
そんなことを、神社で、深夜に笛を吹きながら思っていたのは、記憶に鮮明で。
「そう、出来たら、きっと気持ちが良いだろうな。」
そう、思ったのは、とても良く覚えていて。
そんな事が発端だったかと思う、今日この頃です。
そう、思って篠笛を吹く子供には容易く、20代を越えた後、ギターを弾く僕には、とても、ハードルの高い事だった。
「身体が動いて、音が紡がれ、また、その音を聴いて音を紡ぐ。」
理想だけど、それは、とても、難しく、一旦、ギタリストとしての自分を捨てなければ、と思った時があった。
一旦、身体の事を見つめ直し、その後、その身体で音を出していくことはできないだろうか。
その後、一旦、3年くらいのギターを持たない身体を学ぶ時間を経て、もう一度、ギターを弾き始めることになって。
勿論、その後の新しいかもしれない身体でギターを弾くのが、何よりの目的で、そんなことが、些細な理由だったから。
まあ、色んな事があって。
そのことについて、四苦八苦し、右往左往する道行で、何故か、Kei-kと、なんだかんだで、UKになり、「今、その時」を大切にしていたら、Megさんがいてた。
まあ、そんな、感じです。
これからも、よろしくです。